「人権」と聞くと、皆さんは「親切」や「思いやり」といったイメージを持たれるでしょうか。 しかし、ビジネスにおける人権は、決して道徳の範疇に留まるものではありません。 強制労働やハラスメントなど、「ビジネスをする上で誰かの権利を侵害しないこと」という共通理解から、さらに一歩進み、個々の生活ニーズを満たす権利を受け入れる。 それは、より多様で強い組織と社会づくりにつながる概念です。
今回、日本および東南アジアを中心に「ビジネスと人権」のテーマで活躍する弁護士、佐藤暁子さんと対談する機会に恵まれました。 これからの時代、企業はどう立ち振る舞うべきなのか。その対話の内容をお届けします。(2026年2月対談実施)
企業と社会を強くするために人権に向き合う
世界の政治は自国経済の立て直しに必死で、このままいけば世界は良くなる、と手放しで言える状況ではありません。そんな中でも、企業には気候変動や人権の尊重への対応がいっそう求められています。企業にとっての「人権」は、より切迫した経営テーマになっているのでしょうか。
佐藤
2011年に国連が出した「ビジネスと人権に関する指導原則」では、権利侵害のないビジネス慣行を企業に強く求めています。誰かの権利の搾取や迫害の上で成り立つビジネスのあり方に、強い警鐘を鳴らしたものです。以降、国際的なルールを参考に各国の法令を遵守する以上の対応、つまり「より公正なビジネス」であることが要求されています。近年では、各自の権利を尊重することが人材の確保や定着につながるほか、激変する環境でも生き残るしなやかさを高めるとして、企業が率先して人権に向き合うようになっています。国際政治が混迷を深める中でも、権利を尊重する大きな潮流に揺るぎはないと見ています。
佐藤 暁子さん ことのは総合法律事務所 弁護士 発展途上国での法整備を応援したいとの思いで弁護士を志す。現在は、民事事件を担当しながら、責任あるビジネスに関するコンサルティングや、東南アジアなど現地でのステークホルダーとの対話のコーディネートなどをおこなう。官民や国際機関、NPOなど多様なセクターがかかわり、インクルーシブな社会をつくる橋渡し役になっている。UNDP(国連開発計画)のビジネスと人権プロジェクト リエゾンオフィサーも兼務。一橋大学法科大学院修了。International Institute of Social Studies(オランダ・ハーグ)開発学修士号(人権専攻)。 関連リンク:https://kotonoha-law.com/lawyer/sato
北河
特に欧州では、消費者や市民社会からの要求、あるいは圧力を受けて、いち早くビジネスと人権の取り組みが進んできた印象を持っています。欧州委員会*も、人権を尊重するビジネスが国際競争力になるとの目論見から、規制を含めて後押しをしてきました。一方、日本国内に目を向けると、まだまだ企業の自発性に委ねられている感じがします。この点、違いはありますか?
*欧州委員会:EUの執行及び政策決定機関としての機能を担う
北河 広視 日本特殊陶業株式会社 執行役員 グローバル戦略本部ウェルビーイング戦略グループ人事戦略室・サステナビリティ戦略室・コーポレートコミュニケーション室担当。 医療機器メーカー、自動車関連メーカーで秘書、広報・渉外、経営企画を経験し、2014年日本特殊陶業入社。広報部・経営企画部を経て、21年グローバル戦略本部 サステナビリティ戦略室長、24年執行役員、25年から同社の人事戦略、サステナビリティ戦略、コーポレートコミュケーション(広報)戦略を統括。
佐藤
日本では主権者市民としての教育が諸外国に比べて浸透していないこともあり、なかなか人権への理解が深まっていません。人権は「思いやり」というレベルのものではないし、権利を主張することは決して「わがまま」ではありません。国の対応も十分とは言えません。障がい者差別の解消やLGBTQへの理解増進など、個別事案に対する法律はあるのですが、包括的な差別を禁止する法律*が日本には存在しません。政府から独立した「国内人権機関」も設置されていないため、集団的に声を上げること、また政策について国際人権の観点からレビューを実施するといったことも難しい。経営者の一部が「法令さえ守っていればいいんでしょ」と発言してしまうのも、無理はない背景があるのかもしれません。
*包括的差別禁止法令:人種、性、障がい、信仰など、あらゆる種類の差別をまとめて禁止する法律のこと。日本には現在この法律が存在せず、国際社会から課題として指摘されている。
北河
私は現在、人事戦略部門を担当しています。人権について、先進的な地域の動きを視野に議論はしていますが、日本の法令に基づいて設計してきた従来の人事制度とは「距離」があると感じています。
佐藤
国際標準で言うと、労働時間に週単位で上限をかけたり、即日の離職を尊重したりする考え方のほか、「子どもの権利」や「生活賃金」といったテーマなど、日本企業が議論のきっかけにできる切り口は数多くあります。国際人権規約やILO(国際労働機関)の考えに合わせながら検討することが、ステークホルダーの尊厳を高め、ひいては彼らのウェルビーイングを高めると考えたほうが合理的です。個々の人権基準を満たせる組織は多様性が豊かであり、それが組織、ひいては社会のレジリエンス(しなやかな回復力)を高めます。国際標準に近づける努力そのものが、関わる人にプラスの選択肢を増やす取り組みだと捉えていいでしょう。さらに言えば、合わせるだけでなく、国際的な水準をより高めるために、日本企業はもっと声を上げていいと思います。
北河
私はお菓子が好きですが、最近はチョコレートの値段がかなり上がってきました。しかし、ビジネスと人権、サプライチェーンの視点で見てみると、これまでが安かったという面もあることを学びました。チョコレートに限らず企業側としては、生産に関わる人たちのストーリーをしっかりと伝え、価格の妥当性を消費者の方々に理解してもらう努力も必要だと感じています。
“わかりあえない”からこそ語り合う
社会の構造や歴史的文脈によって、人権への意識も異なりそうです。日本の一部企業では、人権をあえて「ヒューマンライツ」、関わる人を「ライツホルダー(権利の保有者)」と呼んでいます。かつて法令遵守を「コンプライアンス」と呼ぶことで意識が変わっていったように、言葉の定義をアップデートすることで、人権への向き合い方を変えようとしています。
佐藤
確かに英語のニュアンスと日本語が与える印象は異なりますよね。「尊重」はRespectですし、合理的配慮の原語である「Accommodation」には調整という意味合いがあります。企業にとっての人権とは何か、それを取り入れる責任を、企業の価値としてどのように体現していくのか。それをストーリーとしてしっかりと見せ、社会における企業としての考えを発信していくことが、共感される企業の要件になると思います。
北河
当社では「ヒューマンライツ」と言える段階ではありませんが、社内でも少しずつ変化は続いています。公平性を重んじて画一的だった人事制度の一部を、個別の生活条件やニーズに合わせて、プラスの選択肢を増やそうとしています。なるべく多くの従業員の声を聞き、進めているところです。
佐藤
人権に対する問題意識やきっかけは個々それぞれ。時に互いに“わかりあえない”ことがあります。だからこそ、いろいろな声を聞き、異なる声を可視化する努力と、異なる声を交わし合える「場」をつくることが、選択肢を増やす鍵だと思っています。「困っている」という声もあれば、「救われている」という声もあるはずです。それらを拾い上げながら、目指したい社会や会社のあり方を語り合い、手がかりを掴む場を増やしていくことが、会社をアップデートしていくことにつながります。そして、特に、声が届きにくい人たちがこぼれ落ちていないか、自分が持っていない視点はどこにあるか、考え続けることが大切です。
北河
なるほど。議論していくプロセスそのものが大切なのですね。対話ができる企業風土の重要性が理解できました。何か一つの正解があるわけではないでしょうから、皆が納得できる線を探る「対話の積み重ね」が大切ですね。
人権尊重を、新しいビジネスを生み出す起爆剤に
佐藤
誰もがライツホルダーであり、その権利を主張していい。全員が何らかの当事者なのですから。主張することはわがままではなく、異なる目線や価値観を知ることで組織を強くするための「発話」です。互いの権利が一見すると、相容れなかったり、既存の制度と矛盾したりすることも多くあります。だからこそ、フラットな対話を通した合意形成が不可欠なのです。そのためには、まだ出会えていない人たちに会いに出かけたり、異なる価値観を持つコミュニティに出向いたりすることもお勧めします。
北河
佐藤さんとお話をしていて、人権は単に「社会的課題」を解決するために企業がどう関わるかという発想だけではないのだ、と感じました。
佐藤
例えば、方針の策定にとどまらず、人権をすべての中心に置いて経営すると実質的にコミットしている会社もあり、人権というレンズを通して、社会における自社の位置づけやリスク、あるいはチャンスを見出す戦略に成功しています。例えばグローバルサウスといわれる新興国で衛生環境が問題になっていると見れば、そこにビジネスとして手を伸ばしていく。「課題解決=事業機会」という姿勢です。ビジネスの成功と人権の尊重は両立しうるのだと教えてくれています。
北河
製造したものに対する責任のあり方についてですが、弊社の主力製品であるスパークプラグは年間約10億本程度を製造し、世界トップクラスのシェアを誇ります。その普及率ゆえに、広範な流通網の先で、私たちの人権方針とは相容れない形や望まない環境下で製品が使用される可能性を完全に否定することは難しく、グローバルサプライヤーとしての責任をどう果たしていくべきか、考えるところです。
佐藤
製品の使用に関する負の影響を想像できているのは、素晴らしいことです。使用過程のコントロールは実際にはかなり難しいもの。次のステップとしては、その負の影響を可視化することだと思います。世界の現場の皆さんとリスクを認識し、少しでも抑止する方法を議論できることを期待しています。そしてNGO(非政府組織)などから指摘を受けたときには、対話の扉を開き、問題解決のために知恵を寄せ合えるといいですね。
北河
サプライチェーン全体を可視化して、知ってもらうことが第一歩ということですね。 最後にもう一点伺いたいです。近年、動物福祉や生態系、さらにはAIによる新たなリスクというように、人以外の権利についても国際的に議論が進んでいるように思えます。こうした人権を取り巻く環境の変化に対し、企業や個人はどう向き合っていくべきでしょうか。
佐藤
AIの倫理的でない使い方が人の権利を迫害するケースが出てきたように、これからも想像を超える課題が出てくるでしょう。私たちが心得たいのは、意見として互いに相容れないことも多いからこそ、国際人権を基軸として「議論することを諦めない」ことです。時代の変化は加速しています。企業の人権に対する取り組みが、ぜい弱な立場に置かれた人たちの視点を取り入れ、誰の権利侵害の上にも立たない「新たな経済」をつくる起爆剤になれることを期待しています。
「人権」という言葉を聞くと、何か特別な、道徳的なことのように身構えてしまいます。しかし、この対談を通して見えてきたのは、それは私たちが口にするチョコレートや日々の働き方、家族との生活など、幸せを探求する行為そのものだということです。企業として人権に向き合うことは、単なるルールの遵守ではなく、これからの社会でどのような価値を提供したいのかを問い直す、プロセスそのものなのかもしれません。